言葉(言語)は危険である
言葉(言語)は危険である。
ほとんどの会話の中身は間違っているのだ。
しかし、ほとんど、何が間違っているか自覚せずに会話している。
平安時代の書物を読むと、一体、何が主語かわからないし、誰のことを言っているかわからない。つまり、言語がまだまだ未発達で、ほんの近しい人たちの中でなら文脈から誰の話かわかるけど、そじゃなければ伝わらないのだ。
それは、今でも続いている。言語はゆっくりと進化している。
しかし、未だに不完全極まりない。
ソクラテス時代に三段論法が提唱されたけど、ちょっとやってみよう。
【三段論法1】
1ー1:AはBである。
1ー2:BはCである。
1ー3:故に、AはCである。
一見、正しそうである。
では、
【三段論法2】
2ー1:俺は男である。
2ー2:男は強い。
2ー3:故に、俺は強い。
何かおかしい。文法上は正しい。
というか、論理学的にも正しい。
分析すると、2ー2は合っているとも間違っているとも言えない。
だから、2ー3は正しいとも間違っているとも言えない。
これが「論理的必然性」と言って、結論は、前提の確からしさ(正しいという確率)を超えない。
つまり、2の「男は強い」は「50%の男は強いけど、残り50%は弱い」くらいな話で、それを前提にすると、3は「故に俺は50%くらい強いかもしれない」が結論になる。
そこで書き換えると
【三段論法3】
3ー1:俺は男である。
3ー2:50%の男は強い。
3ー3:故に、俺が強い確率は50%である。
さて、何が言いたいかというと、【三段論法2】が間違っているのは、定性的であって、量の概念がない。【三段論法3】は定量的な論法だ。
政治家や官僚の言葉を聞くときに、定量的ではない、定性的な話は嘘だと思った方がいい。
つまり、数値の入っていない会話は、無駄で嘘でゴミなのだ。
と書いているが、これもごみだ。
書き換えれば、政治家や官僚の言葉を聞くときに、定量的ではない、定性的な話は80%くらい嘘だと思った方がいい。ということだ。
ただし、数値を出すには、その根拠が必要となる。でもね、俺は80%くらい嘘だと思う、でいいんだ。自分の中の数値を入れて考えることが、今をちょっと(数%くらい)だけでも前進させてくれるのだ。
などと、暇つぶしの思考。